私が尊敬している元プロ野球選手の福本豊が述べている。
「当たり前のことを、当たり前にこなしているうちに、誰でも一流の域まで届くと信じています。」
…………
ほんとにそうだろうか??
真意は「当たり前」を軽視するな、ということのようであり、
また「当たり前」をがまんして繰り返すことができるか、それが最も大事とも述べている。
ただ、誰でも一流の域というところがどうも引っかかってしまう。
「当たり前」というのは人それぞれ基準が違い過ぎるのではなかろうか。
福本が当たり前とするレベルは、他の人のそれとはかけ離れたものに違いない。
この言葉は、突拍子もない練習に飛びついたりするなという戒め程度にとっておいた方が無難な気がする。
話題は変わるが、桑田佳祐の楽曲を聞くことが多い私が気づいたことがある。
桑田は歌詞に使う言葉のイントネーションを無視した曲作りをしない。
曲と歌詞のどちらを先に作っているのかを知らないが、上記の原則が守られている。
したがって、歌詞が聞き取りやすいのである。
言葉のイントネーションと曲が一致していないと、何を歌っているかさっぱり聞き取れず、あらためて歌詞を見て、初めて理解できるようなこととなる。
多分、このことは桑田にとってあまりに「当たり前」のことであり、これを外すことは、曲作りのプロセスにおいて、絶対に許せない一線と心得ているのではなかろうか。
ここらで止めておけば良いのだが、もう一つ話題を変えると、
私の住んでいる四国にも観光列車がある。
九州や中国地方あたりを走っている豪華列車からは、かけ離れたものだが。
つい先日、里帰りしている娘が手にしたパンフレットに出ていた伊予灘ものがたりという観光列車に乗らないのかと問うので、あまり気が進まない旨を答えた。
一緒にいた相方も「お父さん、あんまりそういうの好きじゃないんよ。」とのたまう。
海岸線を走るこの路線からの伊予灘の景色は、特に夕日が海に落ちる時間帯、素晴らしい景観になることを知っている。
日本列島の中でも、海岸線を西に持つ県が、そんなに多くない事に、最近気がついた。
宣伝になるが、青春18きっぷで有名になった下灘駅も、まさにこの路線にある。
それでも気が進まない。
なぜなら、景色が見やすいように座席が窓側に向けてしつらえてある。
ここは景色が良いんだから、ほら景色を見なさい、もっと見なさいと勧められているようで、お仕着せがましいことこの上ない。
紅葉の時分に、渓谷を渡る橋を走行する列車が、ほらほら、ここここ、とスピードを落としたりするのをテレビで見ているだけで、いたたまれなくなる。余計なことをしてくれるなって。
景色は自分が見たいときに見るし、感動せよと言うなら、人並みにできるので、まあ、正直放っておいてほしい。
自由さは、私にとって優先順位の上位に位置する。
娘らが乗りたがる観光列車は、どれほど車内がきれいで、景色が堪能できるよう設計されているとしても、残念ながら窮屈な気分になるに違いない。(分からんけど)
もちろん、あれこれ算段しながら売店で買い込んだビールを、窓際のスペースが狭く、どこに置こうか迷うくらいの従来の列車が私にとって「当たり前」のことであり、この時のわくわく感がたまらないのである。