何年かに一度、「あゝ、今日が夏の入り口だ」と気づく日がある。
今朝、お孫ちゃんを保育園に送り届けて、帰ろうと車に近づいた時。
東の空を見上げ、空気感が入れ替わったと感じた。
瞬間、なんとも言えないせつなさに襲われた。
子供の頃の夏休みの記憶とかが、一気に押し寄せてきたからだろうか。
四万十川上流域に住む知人から、本日鮎が届いた。
なき始めた蝉の声が、秋の虫に代わるまでの2ヶ月間と少し、夏を満喫したい。
なにもかもにじませている
「荒井由実 cobalt hour(1975年6月) 9曲目 雨のステイションより抜粋」
そんな6月の日曜日。
西条市のひうち競技場では四国マスターズ陸上競技選手権大会が開催されていた。
前日の土曜の夕方、ランシャツにビブナンバーを付け終えた数時間後、突然DNSを決断。
理由は、心を戦闘モードに切り替えできなかったこと、右膝に違和感を感じていたこと等々いろいろ。
夜半の雨も上がった日曜日、参加していれば、1500mで地獄を見ているだろう頃、何をしていたかといえば、お孫ちゃんとお散歩。
この日は梅雨の真っ只中とはいえ、空気はしっとりし、風が心地よい。
もし一年間の内、散歩に適した日が3日あるとすれば、そのうちの一日に該当したと言っても過言ではない日和だった。
散歩のおかげで、家族に疎まれることもなく、お孫ちゃんも上機嫌で、よかったよかったの午前となった。
さすがに昼過ぎからは、家族の目を盗んで、ロードでヒルクライムには出かけたが。
ろくに練習もできていなかったので、DNSと決め込んでいた四国マスターズ陸上競技大会だが、開催一週間前になって、プログラムと出走メンバーが発表された。
800mと1500mそして3000mに登録していたのだが、前の2種だけなら、午前中に済みそうだ。
開催は西条市の競技場なので、昼過ぎには帰ってこられるから、少し食指が動いた。
何と言っても今、我が家は保育園化し、てんやわんやで、私も一部保育士の役割を担わされているため、自由に行動ができずにいる。
もちろん、夕方走ることも、ままならない。
昨日の日曜日、久々に家を抜け出し、400mインターバルを試してみた。
走れてもいないのに、なんとか90秒でいけたのには、ビックリ。
体重だけは保てていたおかげか。
勝手に設定している、参加標準記録をクリアーできたので、出走する気になってしまった。
出るなら、800mは3分、1500mは6分で走りきりたい(何とか)。
さあ、付け焼き刃、老齢、中距離ランナー‥‥どうなることやら。
YS~11から降り、徒歩で空港ターミナルにたどり着いた18歳の男子は、名古屋から付き添いで、来てくれていた父に向かってひとこと言った。
「帰ろ、お父ちゃん」
検索しても、画像が見つからないので、記憶をたどれば、当時の松山空港のターミナルは、平屋でプレハブ作りのような、ホッタテ小屋のそれだった。背部には宮崎とかでよく見る、ビロウが植えられていたような気もする。(全て間違っているかも知れませんが)
これらを目にした瞬間、男子は思った。「ここは僕が来るとこじゃない」
もちろん男子は旅行で来た訳ではない。
2期校の受験のため、初めて四国、愛媛、松山の地にたどり着いたところだったのだ。
1期校に玉砕し、背水の陣で愛媛を受験しようと、2期校突破講習会にも参加し、もしかしたらの希望を胸に、飛行機に乗り込んで来たのに。
慌てた父親は、宿泊施設までの道すがら、タクシーの運転手に「できるだけ、松山の賑やかそうな所を通ってくれませんか」と頼む始末。
運転手も運転手で、堀之内をかすめながら、「まあ、こんなもんですよ」と追い打ちをかけるように、つれない。
その晩、二人で宿の近くの中華か何かを食べたような気がするが、こんなに優しい父親は生まれて初めてのようで、最大限の気を遣ってくれたような気がする。(これも曖昧だが、だとすると、申し訳ない)
今振り返ると、それにしても、18歳にもなった男子の、キモの座ら無さにあぜんとするし、冗談でなく、本気でこんな言葉を父親に投げかける配慮の無さに、恥ずかしくて、涙が出てきてしまう。
昨日、婿さんの見送りついでに、駐機場の、プロペラのボンバルデイアを見ていたら、突如、沈殿していたはずの、父親との忘れ難い思い出が、フラフラと浮き上がってきた。「親父、すまんことしたな。」
余談だが、この受験に奇跡的に合格した男子は、その後、松山に50年間住み続けることになってしまう。
防府のそれとは全く異にする、愛媛マラソンのスタート前の賑わい。
自治体の長、タレント、元オリンピック選手らの登壇。
市民マラソンは、どこもこんなんだろうか。
好みは分かれるかもしれないが、私は残念ながら、防府派である。
粛々とスタートブロックに並び、静かにその時を待ち、淡々と走り出す。
まあ、それは置いて、愛媛県の数少ないイベントになっているのは間違いなく、松山市内のホテルは、開催をありがたがっているそうだ。
一番町の路面に鎮座する、坊っちゃん列車の汽笛を横に、一万余りのランナーはスタートした。
私はスタートブロックCで、先頭の後約1分45秒くらいでスタートラインを割った。(シューズ:ターサーRP3)
さあ始まった。やって来た。防府以来の積み重ねたことを発揮できる機会が。
どうなるのだろう。20キロあるいは30キロ先で何が待っているのか。
キロ5分前後で走り続ける3年前のようなアスリート気分はもう味わえないのだろうか。
お前も、もうお歳で、ただただそれに甘んじるしかないのか。
その指標となる最初の1キロのタイムは5:00。
決して高揚しているわけではないつもりだったが、上出来のペースだ。
上げるつもりもないのに、その後も5分内のペースを積み重ねていく。
5キロ、6キロとなんと4:37が続き、飛ばしすぎとブレーキをかけるほどに。
ただ心拍数がこんな前半で、すでに150を超えてしまっているので、このままでは持つはずがない。
しかし、調子の良さはまだ続いており、難関の平田の坂を上り終えた8キロでも、5:03と驚くほど。
しばらく走ると、隊列が横に広がって、少し詰まってきた感じ。
なるほど、グループの先頭に3時間30分のペースメーカーが風船をつけて走っている。
と言うことは、キロ5分で走ってくれているはず。
ここでしばらく紛れて走ろう。少し脚安めだ。
冷静な判断だ。
しかし、エイドでスポドリを飲むのに手間取ったりしていたら、いつの間にか置いていかれてしまった。
前を走る人たちの汗がすごい。
追い風になろうものなら、暑い暑い。
今日は脱水注意だ。
エイドでのスポドリは止まってでもしっかり飲み干し、バックにしのばせた塩タブも、適時しっかり補給。
足がつったらおしまいだぞ。
そんなことを考えながら、立岩川沿いのハーフ地点までやってきた。
タイムは1:43:17。
上出来じゃないか。
理論的には30分切りが可能だ。無理とはわかっていたが。
この時点で、防府よりは調子が良いことをはっきり自覚する。
25キロ、30キロと段差なく、走り続ける。
このまま行けそうだと思い始めた矢先、それは来た、やって来た。
余りつったことも無いような、右ふくらはぎの小さな筋肉が存在を主張し始めた。
ヤバい。
そのまま走り続けていると、徐々にピクピクが押し寄せてくる。
ここまで来てそれはないやろ。
走りはつらくないのだが、ピクピクがひどくなりそうで、止まるしかない。
その時間は15秒か、あっという間に後続が走り抜けていく。
そんなことを何度か繰り返し、できるだけ脚を棒のようにして走り続けた。
そして難関の平田の坂へ。
もちろんそんな状態だったので、だましだまし登ろうと思っていたのだが…。
なんと職場の友人が自転車で応援に来てくれていて、私に向かって大声で鼓舞し始めたのである。
それも自転車でづっと追い続けて。
こちらの事情を説明できぬまま、彼の鼓舞に乗せられて、なんと上り坂を限界のスピードで登ってしまった。どんどん前の人たちが落ちてくる。
不思議と脚つりはこの時だけはおとなしくしてくれていた。
気をよくして、下りも結構飛ばして、あと5キロくらいの地点までやって来た。
やはりピクピクは黙っていない。
見ると、道路わきの応援の方が、つり止めのスプレーを提供してくださっているではないか。
お願いして脚という脚全域にかけていただく。
だましだまし、あと2キロの地点へ。
心に決めていた。ここからは何があっても止まらないぞと。
元気な後続に抜かれながら、待ち焦がれた城山公園、フィニッシュゲートへ。
やり切った。
防府の借りは返せたかな。
余り距離は走らなかったけど、山を歩いて筋量を増やせたのが、後半の落ち込みを最小にできたかなと思っている。
それにしても、フルマラソンはほんと、走ってみないと判らない事があり過ぎて、魅力的だが、年に何回もはやりたくない。
快晴、弱い風、2月としては高温、花粉無しのコンディションの中。
思い描いていた中では、最良〔松〕のレースができ、無事ゴールできました。
ますは結果のみで失礼します。